(2) 就活開始から就職まで(2)就活から就職へ まえへ(1) ~~最初の最初~~ ★2005年から就活を本格的に開始したのですが 実はその前に一度だけチャレンジしたことがありました。 *福祉機器販売ではパイオニア的な存在のA社で求人をしていることを知ったのは2004年の1月でした。 復職不可のショックからもまだしっかり立ち直っていた訳ではありませんでしたが担当の先生方にも相談し 出来るところまで進んでみようということになりました。 * 社長面接まで進んだのですが最終的には「不可」でした。 * これを機にshinはリハビリとPC技術習得にだけ集中することにしました。 ~~就活はどのように始めたか~~ ★shinの就職は「障害者枠」で探すことを前提としました。 就活前にしたことは 凍結していた失業保険の開始手続と人材登録会社への登録でした。 ~~障害者の就活はどのようにするのか~~ ★大手人材登録会社と訪問PTの先生に情報提供をしていただいた障害者専門の登録会社 それからハローワークでの紹介や合同面接会の機会を利用してエントリーを続けました。 ★特にJ社は小さいながら 社長さん自らも障害を持つ方でスタッフの皆さんも親切にアドバイスを下さりながら 月に4~5件の情報を提供し続けてくださいました。 ★shinの担当のHさんはとても親身になってお世話をしてくださいました。 履歴書や職務経歴書の書き方 面接の練習などこちらが必要とすることを常に意識しながらサポートしてくださいました。 ~~就活の経緯~~ ★2005年の1月から始めた就活でしたが 当初はなかなか芽が出ず受けても受けても「あなたの希望する職種が我が社にはありません」という返事と共に履歴書が送り返されてきました。 ★桜が咲きました。お仲間さんたちとのお花見に出かけたのは4月の初め頃だったでしょうか。 この頃も就活だけをやっていたわけではありません。 通院でのリハビリやPSスクールへ通いスキルアップも続けていました。 また障害者サークルやラポール(障害者も使えるスポーツ文化施設)へも通いフィットネスや情報交換も続けました。 ★shinが「杖を持たない」と言ったのはこの頃でした。 PTの先生は退院時から「shinさんには杖はいらない」と仰っていたのですが人ごみにまぎれた時に障害があることをアピールするためにも杖は必要ではないか・・・と思い退院からずっと使っていました。 その杖を外す・・と言ったshinには何か心境の変化があったのかもしれません。 今思えば その頃からshinの行動がよりアクティブになっていったように感じました。 ~~日々の過ごし方~~ ★J社との遣り取りはメールが主でした。 新しい会社の紹介や前回の結果報告等など。 毎日メールの確認をし返事を書く・・・という健常者には何でもないことが結構しんどい日々のルーティンワークになりました。 PCスクールにも通っているものの 適切な表現を考えながら文章を入力するのは当時のshinにはなかなか根気がいる作業でした。 時には後回しにしたい様子も見受けられましたが ビジネスメールはタイミングがとても重要ということも分かっていたのでメールの返信は毎日の日課のスタートでした。 ~~落ち込んだ時もあった~~ ★20社近くのエントリーでも結果が出ず かなり落ち込んだ時期がありました。訪問OTのO先生からのアドバイスで10日ほどゆっくり過ごしました。 煮詰まっていた気持ちも解れたのか またいい表情が戻って来た頃にはやる気も復活したようでした。 家族としてはヤキモキしたのも事実なのですが こんな時は専門家のアドバイスほど心強いものはありませんね。 ~~ハローワーク開催の合同説明会~~ ★J社の紹介でエントリーを続ける一方で東京と神奈川のハローワークが開催する障害者雇用のための合同説明会にも参加しました。 病前のshinは人事担当として雇用側の立場で面接をする仕事もしていましたので会社の希望と障害者のそれが容易にマッチングしない現実は十分に知っていました。 ★東京体育館や横浜体育館がメイン会場でしたが狭い会場に沢山の会社のブースがあり自分が目的とする会社にはすでに沢山の人が並んでいたりして不自由な体での会場内の移動だけでもかなりのストレスがあったようです。 慣れてくると整理票を先に受け取り あちこちの様子を見ながら可能な限りのスピードで移動し短い列に並ぶ・・・こともできるようになったようです。 ~~就職セミナー~~ ★ゴールが見えないレースほどしんどいものはありません。 特に手ごたえがあった・・・と思う会社から不採用の通知が来た時はかなり落ち込んでいました。 モチベーションを維持するために主に若い人向けに企画された就職セミナーにも参加しました。 社会人として当然のマナーから目からウロコのアドバイスまで。 我が子と同じくらいの若者と一緒に机を並べたshinでした。 ~~そろそろゴール~~ ★そんなことが半年あまり続きました。 6月頃から何度も面談を重ねていた会社から採用内定の通知が届いたのは7月に入ったころでした。 皮肉なことに一社からくると他にも連鎖するのか内定を複数もらった時の心境は複雑でしたが shinの社会人力の復活が客観的に判断されてきた証として受け止めることにしました。 ★最終的に決まった会社はJ社の紹介ではなく ハローワークの説明会でエントリーした会社でしたがJ社のHさんはとても喜んでくださいました。 残念な内容のメールでもHさんは必ず励ましの言葉を添えてくださり shinもそれで救われたことは一度や二度ではありませんでした。 ★今も就活記録のノートが残っていますが トータルで30数社にエントリーしました。そこから面接まで行く場合 行かない場合・・・。先に進むほど期待は膨らみますが上手くいかなかった時の失望感は大きくshinの背中を見るのが辛い時もありました。 新卒の大学生は100社からの訪問をこなす時代だとか。 求職というのはいつの世代でも大変なことなのですね。 ★苦労して手に入れた仕事ですから 若い頃のようにすぐ文句を言ったりすることもなくなり長い時間の通勤にも耐えているようです。 これから定年までの間 健康に過ごし会社へ貢献できることがshinの最大の望みでしょう。 家族としてもそのための応援を続けていかねばなりませんが やるべきことがしっかりと見えていればまだ楽なのかもしれません。 ~~障害を持っての就職~~ ★障害と一口に言ってもその種類は様々で目に見えるものから見えないものまであります。雇用する側としても障害を持つ人の健康状態や会社への貢献度また通勤や会社内での行動など気になることばかりでしょう。 就職してから一年間は会社側もshinの健康状態にかなり気を遣っていたようでした。実際に配属された部署でも同僚の方々の戸惑いは大きかっただろうと容易に想像できます。 しかしshinの言葉から推測する限り 余計な口出しはせず出来ない事はサポートする・・・というスタンスで接してくださったようでshinもその姿勢には感謝しているようでした。 ★どこの企業でも雇用率の達成には頭を悩ませているのが現実でしょう。 企業が欲する人材と障害者が持つスキルや能力がマッチングするためには時間をかけて面談をしたり試用期間を作ったりという工夫が必要なのでしょう。 できれば間に専門のアドバイザーみたいな存在があれば意志の疎通はもっと容易になるのかもしれません。 ********** もうすぐshinの発病記念日の6月14日が巡ってきます。 このブログを始めたのも shinの闘病とリハビリの記録を纏めるのが目的でした。当初はとても重たい内容ばかりで書いている本人が滅入りそうになる日々でしたので根気強く読んでくださった方々にはお礼の言葉もありません。 その頃はまだこの先どうなるのか ゴールが見えない状態でしたが発病から4年が経ち 右麻痺は残っているものの高次脳機能障害も何とか克服でき社会復帰まで果たせた事には深く感謝しています。 この4年間 様々な方にお世話になりました。 おかけしたご心配も並大抵ではなかったことでしょう。 しかし沢山の方々に支えられてshinも社会復帰を果たし毎日働くお父さんとして出かける生活が出来るようになりました。 病前は当たり前だったことの一つ一つが大きな意味を持っていることに気がついた私達です。 もしかしたらshinの発病はカミサマからいただいた「寸止め」の試練だったのかもしれない・・・と私は思うようになりました。 日々を丁寧に過ごすことは これからも忘れてはいけないと胆に命じています。 なかなか纏まった時間が取れませんでしたが 14日を前に一応の記録が完成しました。 私達がいただいた有形無形のサポートを何かの形でお返しできれば・・・とずっと願ってきました。 いつかどなたかのヒントになることもあれば幸いです。 深い感謝を込めて minmin ’07 6月11日 まえへ(1) |